「ひとりでいるときのあなたを見てみたい」
 はじめて写真集を出した頃に、わたしはつぎのような言葉を記している。「まるで世界の身体をかりて、写真というものの在り方を探しているようにも思えるのだ」と。 
その時のわたしは、写真によって写真を探求しようと藻掻いていたはずだ。つまり、写真をいくつかのエレメントに分解し、それらを彷彿させるような被写体を探しまわっていた。たとえばフレームやリフレクションなど、手がかりとしたのは写真のメカニズムにまつわる言葉であった。自分ではそれを、有り体に言えば、「メタ写真」的な実践だと思いこんでいたのだ。 本写真群もそうした興味の圏域に位置するものである。
だが、いま思えば、それは息詰まるような実践でもあった。理由を上げればキリもないが、その写真行為がわたしの視覚的な「快」を優先したものであったことは、その息苦しさの大きな一因であろう。つまり、「メタ写真」という名目はありつつも、そのことは、自らにとって心地よく感じる写真を撮り、それをもっともらしく発表するための口実として、骨抜きにされていたのだ。 
そのこととも関わるが、名目としていたその同語反復的な構造のために、被写体自体のもつ価値や意味を下位において当然とすることに長く耐えられるほど、わたしのフェティッシュは強靭ではなかった。
作品世界を「小宇宙」とでも呼べば響きは甘やかだが、その実が単なるバードケイジに過ぎないことなど珍しくはない。 それよりはむしろ、わたしは、わたしの外に在るものへと写真を奉仕させてしまいと思い始めていた。つまり「純粋な写真」から後退しようとも、わたしは写真を単なる手段へと振り向けてみたかったのだ。行きつ戻りつする思考と実践のなかで、「記録」というものが、写真を撮り、見る者にとっての責務のように思えてきたことは、いまからすれば、当然の帰結であったのかもしれない。
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